チャンマールタイムス

様々なニュースについて語ります。

LGBTとパートナーシップ制度、婚姻

ポイント

・国家が「婚姻」という制度を定めている意味

・愛こそ全て


 多様性について回を分けて語ってきましたが、今回でひとまず多様性をテーマにした記事は一区切りとしたいと思います。今回は性的マイノリティ、いわゆるLGBTについてです。


 そもそも同性愛が差別され続けてきた歴史的経緯というのはここでは触れませんが、これも乱暴に言えば「普通でない」事態に対する、人間の排除本能に起因するところは大きいでしょう。同性愛だけでなくハンセン病などの病変、そして前回でも触れた障がいなどは、「普通でない」つまり私が用いてきた言い方をするなら「多数派に顕れる特徴を有していない」ので、本能的に人間は警戒し、排除したい気持ちになってしまう、敵意を向けてしまう、という反応をします。今はそうでもなくなりましたが、以前は日本の街中で黒人の方を見かけると、ちょっと警戒をしてしまう、という経験をした覚えが私にもあります。今は当たり前になりすぎて何とも思わなくなりましたが。


 で、この「当たり前になりすぎて何とも思わなくなる」というのは非常に大事で、上記に「本能的に」と書きましたが、この「他者」に対する排除本能というのは、「普通でない」ものには敏感に働きますが、「普通・当たり前」になってしまえば働かないということです。移民の多い国では生まれた時からずっと、近所や学校などで白人黒人黄色人種が入り混じって育つので、それが当たり前だとみんな思っていて、街中で外国人を見てギョッとする、というような反応は示さない事がほとんどであると聴きます。民族的多様性も、障がい者も、そして性的マイノリティも、全ての人が生まれた時からそこに当たり前にいて、そういった隣人がいることに何とも思わなくなる社会が実現すれば良いかな、と思っています。自分も含め、みんな仲間で、みんな環境そのものだ、という風に私が言ったのも、そういう意味を込めています。多数派か少数派か、ではなく自分を取り巻く環境に色んな人や物事があるのが当然と思うこと。が大事ではないでしょうか。


 さて、そんな中で問題をピンポイントに絞って、LGBTの人たちの法的な権利問題について。いわゆる「同性婚」問題です。


 その前に「婚姻」というもの、概念について私なりに整理したいと思います。

 私たちは自然と誰かと愛し合うことができます。そうやってゆくゆくは一緒に生活するようになり、子供を作り、家庭を営み、子孫が繁栄していきます。価値観の是非は置いておいて、そうやって我々は長い歴史を紡いできました。

 動物でも、かたくなに一夫一妻を守る種があるようです。特に誰に強制されるわけでもなく、そういう生態、ということなんでしょうね。ところが人間はというと、どうもそういう生態ではないようで、隙あらば男はよその女をひっかけて、そっちでも種を残そうとする。文明が未発達の段階ではそれでも共同体は成立していたのかもしれませんが、人類が文明や文化を手にするにつれて、様々な問題が生じるようになりました。そこで「婚姻」という一種の契約を取り入れることにしたのです。契約という強制力をもって、一夫一妻を守るべきルールにしたのですね。ここで重要なのは、自然と好きなもの同士が一緒になることを「婚姻」としたのではなく、社会的要請から好きなもの同士が一緒にいることを「婚姻」とした、というポイントです。

 婚姻は子供が生まれて人口が増え、生業が盛んになるという利点だけでなく、2つの家族を結合して共同体を大きくする、強化する、という利点もありました。そういった利点は共同体を支配する国家、政府にとってもその発達や強化の為に保護するインセンティブが強く働きます。そこで婚姻のルールを国家が法律で定めるようになったのです。


 こうやって見るとわかるように、婚姻には「愛し合うもの同士がともに生活する」というだけの形式ではなく、「子孫繁栄」や「家同士の結合」という意味合いも含んでいます。

 そして国家は個人とは違い「なんでもありの自由」は持ち合わせていません。国民を守るために様々な義務を負っています。そこで「憲法」というもので、国家が出来ることの限界を示し、もって国家の形(外形)を「国民の名のもとに」規定しています。社会全体の発展を企画すること、そのための国家運営をすること、憲法では国民の権利だけでなくそういった「国家の義務」にかかわることも規定しています。その憲法24条で「婚姻は両性間の合意をもって成立する」と述べています。憲法に書かれているということは、国家が国家全体の発展のために規定している、ということになります。


 そして現代にいたり、多様性の時代を迎え、性的マイノリティの方々の存在感や発言力も増してきました。その中で議論になるのが、同性同士でも結婚したい、というものです。これは自然発生的に一緒に暮らすという婚姻関係ではなく、法的な意味での結婚がしたい、という意見です。法的な婚姻関係にはその社会的要請から様々な手続き的メリットがあります。良く言われるのは手術などの同意ですね。本人が完全に人事不省の時でも配偶者が代わって同意することが出来ます。他にも相続などの問題でも「婚姻」関係にある家族とそうでない人とは明確に区別されています。

 今やダイバーシティの時代、同性カップルにも婚姻関係を結ぶ権利を!という発想は自然なものですし、愛し合うもの同士家族になれるようにすればいい、という考えは私も賛成するところです。

 ですが、上に挙げたような「国家が国民の為、国家の発展の為に定める」という婚姻の定義からすると、私個人としては同性カップルの結婚を法的「婚姻」関係とするのには違和感を覚えてしまいます。それよりは、いくつかの自治体で実施されているような「パートナーシップ制度」を国法で規定し、婚姻とは分けて法的効果、手続き上のメリットを与えるのが良いのではないかと思います。どうしても法的「婚姻」と全く同等の権利を付与する、というものにはならないかもしれませんが、いくつかの、ネットなどで見ることができるオピニオンを見るに、当事者でも「婚姻」という語や形にこだわっている人は少数であり、「パートナーシップ制度」に婚姻に近しい権利を与える、ということで解決を図る方が、多面的にベターではないでしょうか。

 どこかの区議員がおかしなことを口走ってましたが、同性婚を認めても社会は滅びませんし、子孫繁栄に寄与しないといえどもその影響は限りなく軽微です。ただ、だから同性婚も認めよう、という風にするには、どうしても婚姻という制度の歴史的経緯、本質を見るに、そぐわない、または論点がずれている、というように感じてしまいます。


 多くの方は気付いているかもしれませんが、私は「婚姻」という語を「結婚」という定義よりもずっと狭いもの、として使用しています。もちろん、パートナーシップ制度を利用しての同性同士の結婚、という意味での同性婚には賛成です。たとえ人類の歴史がどうあろうとも、愛し合うもの同士が一緒にいたいと願う、人生を共にしたいと願う想いの前では法律もルールも特に意味はなさないでしょう。愛こそ全て、です。


 ただちょっと最近気になるニュースとしては、同じ趣味を持つもの同士、結婚じたいはもう諦めていたり、する意思は無いもの同士、パートナーシップ制度で家族になるのを認めても良いのでは、というオピニオンがあるそうです。それは友達?なんと定義されるのでしょう。分かりませんが、それは友人との「友愛」はあるのかもしれませんが、所謂「愛」の介在しない形式ですよね。私はこれには明確に反対です。同性であろうが異性であろうが、そこに愛、言葉を選ばずに言うなら「性愛」ですね、これが無い関係に結婚や婚姻、パートナーシップという語をあてはめてほしくはありません。道理に反してるように感じます。多様性は寛容と近しい言葉ではありますが、道理の通らないことを認めるという事ではないと思います。


 最後は余談、蛇足だったかもしれませんが、「愛」とかの話になるととてもセンシティブです。今回のは「私はそう思う」というだけで、そう思わない人がいてもそれはしょうがない事ですね。

 次回はテーマを変えて、経済についての話を始めたいと思います。

 

※ただの一般市民の書く記事ですので、特にソースを示していない文章について、不正確であったり、私個人の誤解に基づいていたり、そもそも間違っていたり、する場合があると思います。そういった部分を見つけた方は出来るだけ優しく教えていただけると幸いです。勉強になります。またそういった理由により、記事を丸呑みするのではなく、興味を持ったらぜひご自分でいろいろ調べてみてください。

多様性、その2

ポイント

・障害には「ハンディキャップ」と「個性」という側面がある

・どの個性が社会に適するかはわからない

・たまたま多数派が持つ個性に社会が最適化しているだけ


 多様性、横文字ならダイバーシティという概念には、もちろん男女の性差、それから民族や肌の色による差、そして性的マイノリティ、さらに障がい者の社会への適合という問題もあります。実に様々ですね。

 前回は民族の多様性、ひいては文化風習の多様性が社会に打たれ強さをもたらすというようなお話をしました。今回は所謂障がいについて少し語ってみたいと思います。キーワードはオードリー・ヘップバーンです。


 「暗くなるまで待って」というオードリー主演の映画があります。あんまりネタばれしないように書きたいのですが、、、内容としては、盲目の女性が、家に入ってきた凶悪な犯罪者相手に、夜家を暗くして対峙する、というような話です。つまり、夜家が暗くなると、健常者である犯罪者よりも障がい者である盲目の主人公の方が優位な立場になる、というお話です。

 最近も似たような映画があったように思います。「ドント ブリーズ」でしたか。老人一人暮らしの家だからと軽い気持ちで泥棒に入った若者グループが、盲目だが異常な聴力と残忍性を持つ住人の老人に「狩られる」というようなストーリー、のようです。私は未見です。

 「オードリー・ヘップバーンで語る」と言いながらオードリーに触れるのはここまで(笑)なのですが、これらの作品で描かれているのは、「環境が変わると障がいは一転してアドバンテージになる」という視点です。これは実は社会の多様性を語る上で非常に重要な視点なのです。


 もちろん障がいには「ハンディキャップ」という側面があります。弱点と言いますか。ところが別の見方で「個性」という言い方をする場合もあります。あまり当事者には好まれない言い方だそうですが、私にはあまり語彙力が無いため、ここでは必要上あえて使わせて頂きます。

 先天的であるか後天的であるかはさておき、目が見えないであるとか、耳が聞こえない、であるとか、四肢に欠損や形状異常があるとか、様々な障がいの態様と、健常者の態様を等しいものとして並べてみます。あえて「A」「B」「C」「D」というように並べてみましょう。たまたま四肢が「多数に顕れる」特徴を示している人を仮にAとして、社会というのはその「多数派」に最適化されているのですね。2本脚があって階段を上ることが出来る、それが多数派であるから当たり前のように階段が設置されているわけです。この場合BとかCとかDの人は困難を感じるかもしれません。

 ですが、もしBが多数派であったら。例えば「羽があり空を飛べる」という形状が一般である場合を想像してみてください。あなたはそんな社会にいます。1階から2階に行くのに、「普通の人」は羽ばたいて飛べばなんの困難も感じずに行けます。その個性に最適化された社会では、「階段」や「エレベーター」は発明すらされていないかもしれませんね。あなたは2階という場所には一生行くことはできません。

 Cを、目が見えない、という態様であるとしましょう。そしてあなたは深海のような光の届かない世界で生きています。上の映画のたとえ同様、視覚情報に頼らざるを得ないあなたは、あらゆるものにぶつかるかもしれません。ホームから落ちるかもしれません。車にひかれるかもしれません。危険ですね。でもその世界ではCが多数派です。誰も、そもそも目という器官すら備えていないかもしれない。全ては聴覚や、鳥のように頭部に超音波を出す器官を持ってそれで距離を測っているかもしれない。そんな「普通の人」に最適化された社会では、あなたは生きていくのが非常に困難ですね。

 BやCが多数派である社会では、現実のこの社会で健常者とされている人のほとんどが障がい者ということになります。Bの空を飛べるは流石に荒唐無稽だとしても、Cの社会はもしかしたらすぐ実現してしまうかもしれません。環境の劇的な変化で日光が遮られるとか、地下での生活を強いられるようになるとか、ありえないとは言えません。その時にあなたは「多数派」の特徴を備えている側でいられるでしょうか。


 何が起こるかわからない。だから様々な特徴を備えた人が生きている社会(=豊かな多様性を備えた社会)は、「生き延びる可能性」が比較的多く担保されている、ということになります。急激に日光が届かなくなっても、健常者は軒並み死んでしまって絶滅するかもしれませんが、盲目の人は生き残るかも知れない。考えられる可能性を列挙することはここではしませんが、どの個性が生き延びるために求められるか、は分からないのです。人より臆病な人が生き延びるかもしれない。人より大胆な方が、人より集中力があるほうが、手先が器用な方が、等々。今コロナ禍でもまことしやかに言われる、比較的被害の少ないアジア人は何か特定の免疫があって、というような話もその一種です。突然パンデミックが起きても、特定の人種だけなぜか、先天的にか、習慣によるものか分かりませんが、比較的被害が少なく、生き残る可能性が高いという事例がある、ということは重い事実です。

 蛇足かも知れませんが、恐竜が絶滅した前後、生き延びることができたのは今でいうネズミのような小さな哺乳類やトカゲなどの小さな爬虫類など、それまで「狩られる側」「被食者」だった生き物でした。進化論における「適者生存」の「適者」であり強者であった恐竜が、環境の変化によって絶滅してしまい、(もちろん同様に適者の一部ではあったが)比較的弱者であった小動物が生き残ったという事実も、示唆を含んでいるように思います。


 だからこそまず、健常者(と言われる特徴を備えている人たち)はそういった想像力を持たなければなりません。たまたま多数派に顕れる個性を備えていて、多数派の特徴だからこそ社会はその個性に最適化していて、だから健常者は便利な生活を享受できている。それは「たまたま」なのです。現実そうであるだけ、とも言えますが。

 そして社会の進歩によって、健常者とは違う個性の身体や精神を持っている人でも、生きやすい社会にしよう、という試みは日進月歩進んでいます。耳が聞こえなくてもダンスを踊ることができる人、目が見えなくても弁護士になる人も出てきています。身体的特徴以外の、精神的な個性についても、芸術や科学の世界で健常者には到達しえないほどの成果を出す人も多くいます。もちろんそれは様々な周囲のサポートが不可欠かも知れませんが、たとえ健常者でもなんのサポートもなく生きていくことは不可能なのです。


 そうやって考えていくと、健常者であろうが、身体的または精神的障がいを持っていようが、「同じ社会の仲間」として生きていくことが大事ですし、お互いにお互いが必要、という事も忘れてはならないと思います。私たちの体や心に顕れた特徴は様々であり、そんな様々な特徴を備えた人たちが支えあって生きてくことで、私たちは今よりもっと幸せな社会、幸せな人生を送ることができます。逆に言えば、健常者であっても生きづらさは多く抱えているでしょう。「自分とは別の形に最適化された社会に対する生きづらさ」を抱えているという意味では、誰もが障がい者と言えるかも知れません。「自分が社会に適合できない」のではないのです。たまたま「自分とは別の形に最適化された社会に生きざるを得ない状況であるがゆえに」生きづらさがある。もちろん程度の差は確実にあって、おそらく多数派に属すであろう私の生きづらさと、いわゆる障がい者の生きづらさは比べるべきものではありません。

 障がい者が関係する事件が起こるたびに、多くはないものの障がい者への差別や敵意、蔑視などが顕在化することがあります。そんな時に私が、出来ればみんなが認識したら良いなと思うのは、自分も含め、「みんな」がそれぞれ社会の仲間であると同時に、この社会を取り巻く「環境そのもの」である、という事です。その中で、未発達な社会が歴史の途上で「多数派」にしか最適化できなかったが、進歩によって、より多くの個性に対応できるようになってきた。これは歓迎すべき事です。なぜなら、「多様性」は我々人類が生き残る重要な強味になるからです。そう考えることが何かを解決できるわけではありませんが、少なくとも「誰かを社会から排除しなければ」という考えにはならないんじゃないかと思います。


 それでも、よく裁判などで「心身耗弱の場合は減刑」とか「心神喪失の場合は無罪」とかニュースを見ると、どうにも不当のような気持になるでしょう。それについてはまた別の機会に触れたいと思います。


 次回は多様性つながりで、性的マイノリティについて語ってみたいと思います。炎上しないかな。大丈夫かな。


※ただの一般市民の書く記事ですので、特にソースを示していない文章について、不正確であったり、私個人の誤解に基づいていたり、そもそも間違っていたり、する場合があると思います。そういった部分を見つけた方は出来るだけ優しく教えていただけると幸いです。勉強になります。またそういった理由により、記事を丸呑みするのではなく、興味を持ったらぜひご自分でいろいろ調べてみてください。

多様性

ポイント

 ・古代中国史に現れた多様性国家『匈奴

 ・多様性の持つ強さと、対極にある「単一価値観にまとめ上げてしまう」事の対比


 では今回は予告通り「多様性」について。

 2回に分けてお送りします。初回は古代中国史に学ぶ多様性。次回はオードリー・ヘップバーンに学ぶ多様性、です。


 漫画「キングダム」の影響で昨今中国史ブームがあるようですね。福田雄一監督の「三国志」の映画も公開間近のようです。中国史ブームは私が覚えているだけでも過去に2回ほどあったように思います。横山光輝先生の漫画「三国志」がアニメ化された90年代初め、少年ジャンプで漫画「封神演義」が連載されていた90年代後半。私が生まれる前ですが70年代にはドラマで西遊記があったり、80年代にはほとんど話は違いますが孫悟空が出てくる漫画・アニメ「ドラゴンボール」が社会現象にまでなりました。

 古代中国と言ってイメージされるのはこれら作品に描かれた世界でしょう。妖怪や仙人が跋扈し、ヒーローがそれをやっつける。時々地元の悪い領主であったり、盗賊なんかが出てきて懲らしめられる、日本でいえば水戸黄門のような世界観でしょうか。

 さてそんな古代中国史、今回目を向けるのは紀元前3世紀ごろ、上記「キングダム」の時代とほぼ同時期にあたります。中国の、と言いますが中国という名称はご存じの通り「中華人民共和国」の略ですのでそんな昔にあの一帯を「中国」とは言ってません。おそらくその頃一般的であったであろうあの地域を指す名称は「中原」では無いかと言われています。そんな中原地方に現れた秦や漢と言った王朝に非常に大きな影響を与えた国家が、その遠く北側に存在しました。匈奴と言います。北方の騎馬・遊牧民族で、現代のモンゴル人の祖先(人種的にというよりは生活文化的に)と言われています。モンゴルと言えば世界史上最も広大な面積を支配した帝国「大元ウルス」(要するに元)を打ち立てた民族ですね。その祖先でもあります。この匈奴は、実際1500年後に世界最大の帝国を作り上げるだけの秘訣のある国家運営のシステムを持っていました。キーワードは「多様性」です。そんな匈奴から現代にも通じる「多様性」について学んでみたいと思います。


 匈奴という民族は文字文化を持たなかったため、歴史にほとんど登場の場がありません。南の中原国家が書き記した記録からしかその実態をうかがい知ることが出来ないのです。おそらく匈奴との交流が最も活発であったであろう漢の時代に作られた有名な「史記」にも記述があります。高祖劉邦ですら敗走させるほどの強さで漢を圧倒し、その強大さから漢は匈奴に対し不平等条約を結ばざるを得なくなり、その兄弟関係(もちろん兄が匈奴)はしばらく続いた、とあります。漫画や映画で見ることのできる英雄を遁走させるほど強かった匈奴。紀元前から長く世界最先端の技術や武力で世界史に君臨した中原国家の数々よりも明らかに強いと記録された匈奴

 本来「史記」のような歴史書は、書かせた為政者に都合のいいように書くものです。史記漢の武帝の時代ですが、これはちょうど匈奴との長い葛藤に終止符を打ち、兄弟関係を打ち破った直後にあたります。武帝が長年いじめられてきた匈奴にやりかえしてやったぞ!という気持ちで書かせたのかは分かりませんが、自らの祖先の情けない敗走劇を記述する、というのは異例です。

 ここから伺い知ることが出来るのは、もちろん武帝の時代には匈奴を圧倒し優位に立っていたから、という側面もあるでしょうが、そう書かざるを得ないほどやはり匈奴が強かった、という事ではないでしょうか。(そしてそんな匈奴を破った俺スゲー!も言いたいことの一つでしょう。)


 匈奴が暮らすのは中国北方の、まさしく現代のモンゴルからロシア中南部にかけてです。定住して農作物を作るのには向いていない土地ですので、遊牧民として点々としながら生活をしていました。この辺は今のモンゴルにも受け継がれていますね。このころは周囲に突厥月氏、東湖など他の遊牧民族もあり、特別匈奴が傑出した集団というわけでは無かったようです。


 始皇帝が中原国家を統一した頃、匈奴にも傑物と語り継がれる君主が現れます。冒頓単于(ぼくとつぜんう)という人物です。冒頓単于は次々と周囲の遊牧民族を従え、秦や後の漢に脅威となる巨大な北方騎馬民族国家を支配しました。

 匈奴を始めとした北方騎馬民族は非常に厳しい環境で生活している都合上、複数の民族が敵対するのではなく協力しあう、という習慣がありました。そんな文化を継承し、冒頓単于は自らの国家運営も、征服者である自らの言語、習慣、文化を強要するのではなく、最低限の朝貢と軍務さえこなせば、あとは自由、というシステムを導入しました。なので匈奴に侵略された国も、侵略前とほとんど変わらない生活を送ることが出来たのです。こうやって匈奴は多様性を担保した国家を作り上げていったのです。様々な特徴を持った多様な民族が「協力しあって」国家を運営していくので、自然災害や外敵の脅威など多彩な国家の有事に対して柔軟に対応できたのです。


 始皇帝の時代から匈奴は脅威であったため、みなさんもご存じの万里の長城、あれが建設されたのもこの頃です。冒頓単于は東西に広く領土を広げることはできましたが、南進は長城によって阻まれました。それでも北方のほとんどの騎馬民族を平定し、上記のように巨大な国家を建設しました。冒頓単于個人の圧倒的武力に拠るところも大きいとは思いますが、厳しい環境ながらそれだけの勢力を持てたのは、やはり多様性に拠るところも大きいと私は踏んでいます。

 多様性にも弱点はあるようで、それは「まとまりのなさ」という結構見えやすいところにある落とし穴なのですが、冒頓単于の時代は彼のカリスマでまとまっていた国家も彼亡き後まとまりを失っていきます。上記のように漢との立場は逆転し、歴史上ではひっそりと滅亡への道をたどります。彼らが次に歴史に登場するのは13世紀、モンゴル帝国として、です。


 ここまで見てきて、厳しい状況で「打たれ強さ」を持つうえでは、やはり「多様性」というポイントは欠かせないように思われます。ゲームのパラメーターでたとえるなら防御力ですね。しかし攻撃力という側面では、あまり多様性は関係ないように思いますし、場合によっては攻撃面では多様性はむしろネガティブな影響があるようにも思います。上にも書いた「まとまりのなさ」です。

 歴史では、征服した国は言語から文化まで全て奪い取り、自らの文化に染め上げてしまうという形での侵略は多く見受けられます。匈奴が行ったような、ある意味緩い征服の仕方は、あまり類を見ません。のちのモンゴル帝国(大元ウルス)も侵略の際に、「服従しなければ皆殺し。服従すれば全ていままで通り。」を事前通告し、その言葉通りの対応をしたと言われています。冒頓単于匈奴を彷彿とさせますね。結果人的被害を最小限に抑えて巨大な帝国を作り上げられたのは言うまでもありませんが、様々な、多様な文化が東西幅広く交流する土台となりました。そしてまとまりのなさから分裂し、大元ウルスは比較的短命に終わりました。


 「まとまり」さえしっかりと抑えられれば、「多様性」を持つ社会は非常に強い、ということを学ぶことができるかと思います。そして驚くべきは、2200年も前の中国北方に、そういった考えを持ち、実践した君主がいた、ということです。驚くべき統治センスです。冒頓単于は他にも当時「領土」という概念の薄かった遊牧民即にその概念を浸透させたり、とにもかくにも傑物、一歩も二歩も先を行く人物であったのは間違いないようです。


 それではまとめていきたいと思います。

 アメリカ大統領選挙では、多様性を重視する民主党候補が当選しました。コロナ禍においてはなにより外的要因(パンデミック)に対して強い社会の構築が最も重要です。単一の価値観だけで対応するのではなく、多様性を持った集団がことに当たることで、柔軟かつよりベターな方策を打つことが可能になるのではないでしょうか。

 時代によって求められる価値観は異なるでしょう。ですが、今求められているのは、「多様性」なのではないでしょうか。私はそう思います。


 次回は今回同様「多様性」について語ります。中心となるのは、オードリー・ヘップバーン??です。

 

※ただの一般市民の書く記事ですので、特にソースを示していない文章について、不正確であったり、私個人の誤解に基づいていたり、そもそも間違っていたり、する場合があると思います。そういった部分を見つけた方は出来るだけ優しく教えていただけると幸いです。勉強になります。またそういった理由により、記事を丸呑みするのではなく、興味を持ったらぜひご自分でいろいろ調べてみてください。

アメリカ大統領選挙に学ぶアメリカ流自由主義

 

ポイント

 ・アメリカ人は国民皆保険を敵視している

 ・日本人には理解しがたい「自由主義

 ・自由主義と宗教観から導き出される「自由」「責任」「博愛」


 さてジョーバイデン氏の当選が確実となったアメリカ大統領選挙アメリカの国内の選挙ではありますが、だれが大統領になるかは世界のあらゆる側面に影響を与えるため、世界中から広く関心を集めています。

 今回はこの2020年アメリカ大統領選挙から学ぶことができるアメリカ流の自由主義について。


アメリカ人は国民皆保険を敵視している

 アメリカは日本と違い、国民皆保険はありません。オバマ大統領の時代に「オバマケア」と呼ばれる公的保険のシステムが導入されましたが、これに反対して当選したトランプ大統領によって骨抜きにされてしまいました。

 長年公的皆保険システムの無かったアメリカでは、このオバマケアは理念は素晴らしいと評価できるものの、国民の多くの不満を買っていたのも事実です。日本の保険システムもそうですが、「真面目に納税している健全な」白人労働者が割を食うという側面が大きかったからです。日本では、まだ納税や保険料納入によって高齢者や困っている人を助けよう、という共助の考えがある程度根付いているため、毎月「高いなあ」とは思いつつも税金や保険料にそこまで強く不満を訴える人はいないでしょう。

 アメリカでは長年保険が無いのが当たり前であったので、急にオバマケアで不健康な困窮者にお金が流れるようになると、健康な納税者(ないしは保険料納入者)が不満を抱くのも自然な感じがしますね。アメリカはなぜこうも長年に渡って公的保険が無いのが当たり前の社会を築き上げてきたのでしょうか。


・日本人には理解しがたい「自由主義

 アメリカも日本も同じ「自由主義」陣営である、とよく言われます。これは別の言い方をすれば古いですが「西側諸国」と同義でしょう。要するに共産主義陣営(東側諸国)に相対する存在、という程度の意味です。このように同じ「自由主義」という言葉でくくられるアメリカと日本ですが、その概念のとらえ方には非常に大きな開きがあります。

 日本の自由主義は戦後に欧米(特にアメリカ)から輸入・移植されたものです。我々日本人が歴史の中で勝ち取った権利ではありませんね。ところがアメリカ人は彼らのルーツであるヨーロッパで長年血と涙を流して勝ち得た権利が「自由」です。その時点で「自由」へのこだわりの強さは全然違うのは理解できますね。特にアメリカ大陸に渡りアメリカ人の祖先となったヨーロッパ人は、ヨーロッパでの抑圧からの自由を目指してメイフラワー号に乗ったのです。ヨーロッパ系の人種の中でも「自由」に大きなウェイトを置くのも無理はないでしょう。


 自由主義の中でも特に重要な概念は「経済的自由」です。不当に自分の稼いだ金を取られないことです。かつてヨーロッパ封建社会では、領主や貴族、王族などの恣意的な税の徴収が可能であり、働いても働いても搾り取られる、というのが当たり前でした。しかしイギリスで様々な葛藤の末議会政治が発達し、政治の世界に金を稼いで力を持った「市民」が入り込むようになり、政治において「経済的自由の保障」が重要になります。ジョン・ロックが唱えた自然権の一つですね。経済的自由を訴える市民政治家の意見もある程度取り入れないと議会内で数的な力を得ることが出来ないため、守旧勢力もしくは既得権益を持つ権力者たちも、しぶしぶながら市民たちの経済的自由を認めざるを得なくなったのです。

 さらに産業革命によって市民は金と権力を得ていきます。資本家の誕生です。そこでも自由主義が尊ばれました。アダム・スミスの著した「国富論」では自由放任主義で市場のなすままに任せていれば「見えざる手」によって自然に調整が行われ、経済は健全に発展を遂げる、という理論です。つまり経済市場に政府が介入することを、厳に禁ずる「自由主義」が発達したのです。

 

 「政府がむやみに国民からお金を取り上げない」「市場に政府が介入を(極力)しない」という自由主義を徹底的に実践したアメリカはどうなりましたか?今や世界一の大国です。アメリカは「自由主義」で偉大になったのだ、というのが大方の「伝統的アメリカ人」の認識です。

 さらに少しだけ詳細につっこむと、「社会進化論」という考え方があります。これはダーウィンが唱えた「進化論」が、社会というものにも当てはまるのだ、という考え方です。ここでは政府の役割はさらに狭められ、治安維持や国防にのみ国家の役割があり、それ以外は一切何もするな、介入するな、という主義です。弱者救済など以ての外。福祉は敵、です。なぜなら、弱者は淘汰されて消えゆくべきであり、適者生存の原理に従い社会に適合できた人(経済的成功を得られた人)だけが社会に残っていけば、自然と社会全体が強く進化するからです。逆に言えば弱者救済を行えば、社会に適合できない人間を国家が抱え込むことになり、社会全体が弱体化する、ということになります。

 アメリカはこの社会進化論に従った国家運営を行い、国民の隅々にまでこの考えが浸透しています。その結果としてアメリカは世界一の金持ち国家になりましたが、貧富の差は尋常じゃなく激しく、治安も良いとは言えませんね。でもそれがアメリカのダイナミズムであり、アメリカンドリームの魅力とも言えます。こうやって見てみると、日本人からすると自由すぎてついていけない、というくらい、理解に苦しむ概念とも言えるでしょう。困っている人が困っているのは、彼が社会に適合できないからだ、といって切り捨てる。なんだか冷たい社会ですね。まあ日本もちょっと種類の違う自己責任論国家ではあるので、他者に冷たく厳しいという意味では日本の方がネガティブかもしれませんが、それについてはまた別の機会に触れましょう。


自由主義と宗教観から導き出される「自由」「責任」「博愛」

 ここまで見てきたように、徹底的な自由主義による「自由」と、その付随概念である「責任」が常に付きまとう社会、がアメリカという社会なのです。徹底した経済的自由という観念からは公的保険などは考えられようもなく、年金も保険も「個人で」「自分の責任で」やるものなのです。それが出来ない貧乏人は、つまり社会に適合できなかったのだ、と。

 とはいえキリスト教の影響の強いアメリカですので、「博愛精神」と言いますか、「隣人愛」というものも重要視はしています。伝統的アメリカ人は必ず日曜日には教会に行きます。そこではもちろん助け合いについても学びます。弱者救済などはそのような教会や、篤志の財団などが行っている、という現状もあります。ここでも国家の役割を最小限に(それ以外の必要な事は個人または民間で)、という考え方が見えてくるようです。


 アメリカでは共和党が保守的、と言われます。アメリカにおける保守思想とは、この自由主義思想に他なりません。もともとは封建社会での貴族や領主に対抗する概念であった自由主義。そういう意味ではその主義の誕生時には「リベラル」だったわけです。実際自由主義のことを「リベラリズム」と訳したりしますので。でも自由の国アメリカではそんなリベラリズムが保守、なのです。対して民主党は比較的福祉国家的な要素も政策に取り入れていこうという、アメリカで言う「リベラル」な政党です。ややこしくなってきましたね。保守派はリベラリズムで、リベラルは福祉国家ないしは社会自由主義自由民主主義、のような物を志向しているのです。


 実は「自由主義」と「民主主義」とはちょっとズレのある概念です。極端な自由主義は上に書いたような社会進化論的な、弱者切り捨ての考え方ですが、民主主義は「みんなの意見を大事にしましょう」という考え方です。民主主義も自由や権利は大事にしますが、どちらかというと「平等」も重要視する考え方です。民主党はその名の通り民主主義を標ぼうしています。つまり、弱者も救済していきましょう。社会に多様性を持たせて社会を発展させていきましょう、という考えです。

 共和党自由主義は「社会に多様性」より「適者生存」の原則で社会を発展させてきた、そして今後もそうである、という考え方です。


 21世紀に入り、「繁栄のしかた」にも変化が訪れました。冷戦が終わって以降、ヨーロッパでは福祉国家の建設が叫ばれ、社会民主主義が台頭しました。北欧やカナダのように福祉に力を入れる国が経済的にも発展を続けました。人種や性的マイノリティに対する考え方も世界規模で変わり、ボーダーレス、ダイバーシティというキーワードが今の時代を支配しているともいえるでしょう。アメリカでは民主党はそんなボーダーレス、ダイバーシティの時代に対応、適応していこう、という政策を打ち出し、実際にオバマ政権は実行に移しました。しかし(これは共和党ですが)ブッシュ政権から続く「世界の警察」としての負担がアメリカの経済に打撃を与え、オバマ政権でも前向きに評価できるような成果は上げられませんでした(リーマンショック後はリカバー景気によってGDPが伸びはしましたが)。アメリカでトランプを選んだ人たちは、「そうだ、やっぱり自由主義なんだ!自由主義こそがアメリカを再度偉大にしてくれる!」と思い、トランプも「Make America Greart Again!」と煽ったのです。

実際トランプ政権下でアメリカの経済は比較的持ち直しています。日本ではあまり報道されないように思いますが、彼結構仕事ちゃんとしてたんですよ。まあコロナで全部吹っ飛びましたが。


 日本にいると、「なぜアメリカではこんなにトランプが人気なんだ?」と思うことは多いでしょう。ドナルドトランプという人物は傲慢で、差別主義者で、いかにも成金で、感じの悪いおっさんですからね。だがアメリカ人の多くは低迷する経済、高い失業率の中で喘ぎ、トランプが実現してくれるであろう自由主義に望みを託したのです。伝統的アメリカ「白人」は自分が「敗者=弱者」の側に入るとは思ってないんですよね。でも実際足元を見てみると、あれ、俺もしかして社会的弱者になってる?なのに黒人や移民が経済的成功を収めていたりする。なにかがおかしい、と思っているんです。多様性だとか、ボーダーレスとか言うエスタブリッシュメント(近年は専ら民主党的なリベラルの方向性の中で成功していたり既得権益を持っている人たちをこう言います)に不信感を抱いているんですよね。だとしたらやっぱり自由主義なんじゃないか、と。


 多様性、だとか移民のせいで、昔から住んでる自分たちの権利が侵されている、という概念で政治が動いた例は最近ではブレグジットがありますね。イギリスも多様性にノーを突きつけたのです。


 まだ書き足りない部分もありますし、サイズや時間の関係上少々正確でない書き方をしてしまった部分もありますが、長くなったのでまとめていきます。


 今回そんな人気者のトランプが、でも負けた。これはおそらくコロナの影響は大きいと思います。今でもアメリカ人の大多数は自由主義への回帰を求めていると思います。ですが、徹底的な自由主義は政府の介入を嫌います。パンデミックの状況下では、やはり「政府が何をできるか」が重要になります。自由を重んじていたら、感染拡大は防げないです。まさに今アメリカが身をもって証明していますよね。世界最悪の感染国になっていますので。

 なので、トランプよりは「政府の役割」を民衆が求めた、その結果ではないでしょうか。

 

 今回はこの辺で。


 次回は、今回もところどころ触れた「多様性」について、なぜ多様性が社会の発展をもたらすのか、古代中国を見ながら述べていきたいと思います。


※ただの一般市民の書く記事ですので、特にソースを示していない文章について、不正確であったり、私個人の誤解に基づいていたり、そもそも間違っていたり、する場合があると思います。そういった部分を見つけた方は出来るだけ優しく教えていただけると幸いです。勉強になります。またそういった理由により、記事を丸呑みするのではなく、興味を持ったらぜひご自分でいろいろ調べてみてください。

 

自由主義の限界

 

CNN.co.jp : ドナルド・トランプ大統領は2期目を迎えるに値する


CNN.co.jp : ドナルド・トランプ大統領は2期目を迎えるに値する

 

アメリカの保守が標榜する『自由主義』というものは理解できなくもないが、世界最大のコロナ被害国になった背景にはその自由主義がある、というのは否定できないだろう。
人工妊娠中絶に反対するのは構わないのだが、アメリカで一時期急激に犯罪率が下がったのは人工妊娠中絶が合法となって15~6年後のことだ。ただ、その間中絶された胎児の数は、犯罪現象で減った殺人被害者の数よりは圧倒的に多かった。これをどうとらえるか。
トランプを4年経験したアメリカ人が何を選ぶのか。結果如何では来年以降の世界が大きく変わる。

 

ことにパンデミックという状況では、自由な市民たちの個々の行動の集合では太刀打ちできない。政府が国民に対して何ができるか、政府の役割を認め、利用しコントロールするという考え方が必要になる。

厳罰化に向けて

児童虐待9裁判


児童虐待9裁判

 

児童虐待判例を調べる中で見つけた記事。ブログなのかな?
書いた人は、児童虐待の判決が年々厳罰化の一途にあることに対して疑問を呈している。確かに仰ることは真っ当だと思う。だが私は異なる視点だ。
残念ながら人の命の価値は時と場所によって異なる。尊属殺規定が消えたのは「親の命」の価値が下がった(というよりそれまで高かったのが普通になった)という事であり、児童虐待の厳罰化は「子供の命」の価値が年々上がっている事の証左だ。少子化が進む日本において至極当然の現象だ。
児童虐待に対する不寛容を示す社会は果たして健全だろうか?と述べておられる。私は胸を張って言う。誠に健全だと。例に出されている巣鴨事件の時代こそ不健全だったのだ。
法は正義の実現を期して作られ運用される。だが正義も時と場所によって変わる。普遍的な正義などないし、それを叶える法もない。だからある程度法律も時代のニーズに依らなければならない。金科玉条など無い。

哲学

木曜の朝のEテレ「Q」が面白い。なぜ勉強しなくちゃいけないの?なぜ大人は勉強しろしろうるさいの?
大人は遊べる子供がうらやましいんだ。だからいじわるをしてるんだ。そんな意地悪には従わなくていいんだ!勉強なんて役に立たないし!する必要ない!しなくていい!なのに大人は子供をうらやましいから意地悪で勉強させる!
そうやってQ君はステージの上で大衆を煽動し、みんなで「勉強なんかしないぞ!」とシュプレヒコールを挙げる。
これマスコミがやってることだよね。凄いよね。子供向け哲学の番組なのに、大人の世界がまんま描写されてる。大衆に耳障りが良い、受けの良い報道をバンバン流して視聴率を上げるのに躍起。だれも「いや、勉強はした方がいいよ」なんて正しいことは言わない。だってそれじゃ視聴率稼げないもんね。おまんま食い上げだもんね。本当のことは面白くないし、地味だからね。
テレビに限らず今はネットの情報も、気をつけないと。我々は自分の気持ちを満足させてくれる情報に食いつきがちだけど、それは煽動であって本当の報道ではないかもしれない。