チャンマールタイムス

様々なニュースについて語ります。

LGBTとパートナーシップ制度、婚姻

ポイント

・国家が「婚姻」という制度を定めている意味

・愛こそ全て


 多様性について回を分けて語ってきましたが、今回でひとまず多様性をテーマにした記事は一区切りとしたいと思います。今回は性的マイノリティ、いわゆるLGBTについてです。


 そもそも同性愛が差別され続けてきた歴史的経緯というのはここでは触れませんが、これも乱暴に言えば「普通でない」事態に対する、人間の排除本能に起因するところは大きいでしょう。同性愛だけでなくハンセン病などの病変、そして前回でも触れた障がいなどは、「普通でない」つまり私が用いてきた言い方をするなら「多数派に顕れる特徴を有していない」ので、本能的に人間は警戒し、排除したい気持ちになってしまう、敵意を向けてしまう、という反応をします。今はそうでもなくなりましたが、以前は日本の街中で黒人の方を見かけると、ちょっと警戒をしてしまう、という経験をした覚えが私にもあります。今は当たり前になりすぎて何とも思わなくなりましたが。


 で、この「当たり前になりすぎて何とも思わなくなる」というのは非常に大事で、上記に「本能的に」と書きましたが、この「他者」に対する排除本能というのは、「普通でない」ものには敏感に働きますが、「普通・当たり前」になってしまえば働かないということです。移民の多い国では生まれた時からずっと、近所や学校などで白人黒人黄色人種が入り混じって育つので、それが当たり前だとみんな思っていて、街中で外国人を見てギョッとする、というような反応は示さない事がほとんどであると聴きます。民族的多様性も、障がい者も、そして性的マイノリティも、全ての人が生まれた時からそこに当たり前にいて、そういった隣人がいることに何とも思わなくなる社会が実現すれば良いかな、と思っています。自分も含め、みんな仲間で、みんな環境そのものだ、という風に私が言ったのも、そういう意味を込めています。多数派か少数派か、ではなく自分を取り巻く環境に色んな人や物事があるのが当然と思うこと。が大事ではないでしょうか。


 さて、そんな中で問題をピンポイントに絞って、LGBTの人たちの法的な権利問題について。いわゆる「同性婚」問題です。


 その前に「婚姻」というもの、概念について私なりに整理したいと思います。

 私たちは自然と誰かと愛し合うことができます。そうやってゆくゆくは一緒に生活するようになり、子供を作り、家庭を営み、子孫が繁栄していきます。価値観の是非は置いておいて、そうやって我々は長い歴史を紡いできました。

 動物でも、かたくなに一夫一妻を守る種があるようです。特に誰に強制されるわけでもなく、そういう生態、ということなんでしょうね。ところが人間はというと、どうもそういう生態ではないようで、隙あらば男はよその女をひっかけて、そっちでも種を残そうとする。文明が未発達の段階ではそれでも共同体は成立していたのかもしれませんが、人類が文明や文化を手にするにつれて、様々な問題が生じるようになりました。そこで「婚姻」という一種の契約を取り入れることにしたのです。契約という強制力をもって、一夫一妻を守るべきルールにしたのですね。ここで重要なのは、自然と好きなもの同士が一緒になることを「婚姻」としたのではなく、社会的要請から好きなもの同士が一緒にいることを「婚姻」とした、というポイントです。

 婚姻は子供が生まれて人口が増え、生業が盛んになるという利点だけでなく、2つの家族を結合して共同体を大きくする、強化する、という利点もありました。そういった利点は共同体を支配する国家、政府にとってもその発達や強化の為に保護するインセンティブが強く働きます。そこで婚姻のルールを国家が法律で定めるようになったのです。


 こうやって見るとわかるように、婚姻には「愛し合うもの同士がともに生活する」というだけの形式ではなく、「子孫繁栄」や「家同士の結合」という意味合いも含んでいます。

 そして国家は個人とは違い「なんでもありの自由」は持ち合わせていません。国民を守るために様々な義務を負っています。そこで「憲法」というもので、国家が出来ることの限界を示し、もって国家の形(外形)を「国民の名のもとに」規定しています。社会全体の発展を企画すること、そのための国家運営をすること、憲法では国民の権利だけでなくそういった「国家の義務」にかかわることも規定しています。その憲法24条で「婚姻は両性間の合意をもって成立する」と述べています。憲法に書かれているということは、国家が国家全体の発展のために規定している、ということになります。


 そして現代にいたり、多様性の時代を迎え、性的マイノリティの方々の存在感や発言力も増してきました。その中で議論になるのが、同性同士でも結婚したい、というものです。これは自然発生的に一緒に暮らすという婚姻関係ではなく、法的な意味での結婚がしたい、という意見です。法的な婚姻関係にはその社会的要請から様々な手続き的メリットがあります。良く言われるのは手術などの同意ですね。本人が完全に人事不省の時でも配偶者が代わって同意することが出来ます。他にも相続などの問題でも「婚姻」関係にある家族とそうでない人とは明確に区別されています。

 今やダイバーシティの時代、同性カップルにも婚姻関係を結ぶ権利を!という発想は自然なものですし、愛し合うもの同士家族になれるようにすればいい、という考えは私も賛成するところです。

 ですが、上に挙げたような「国家が国民の為、国家の発展の為に定める」という婚姻の定義からすると、私個人としては同性カップルの結婚を法的「婚姻」関係とするのには違和感を覚えてしまいます。それよりは、いくつかの自治体で実施されているような「パートナーシップ制度」を国法で規定し、婚姻とは分けて法的効果、手続き上のメリットを与えるのが良いのではないかと思います。どうしても法的「婚姻」と全く同等の権利を付与する、というものにはならないかもしれませんが、いくつかの、ネットなどで見ることができるオピニオンを見るに、当事者でも「婚姻」という語や形にこだわっている人は少数であり、「パートナーシップ制度」に婚姻に近しい権利を与える、ということで解決を図る方が、多面的にベターではないでしょうか。

 どこかの区議員がおかしなことを口走ってましたが、同性婚を認めても社会は滅びませんし、子孫繁栄に寄与しないといえどもその影響は限りなく軽微です。ただ、だから同性婚も認めよう、という風にするには、どうしても婚姻という制度の歴史的経緯、本質を見るに、そぐわない、または論点がずれている、というように感じてしまいます。


 多くの方は気付いているかもしれませんが、私は「婚姻」という語を「結婚」という定義よりもずっと狭いもの、として使用しています。もちろん、パートナーシップ制度を利用しての同性同士の結婚、という意味での同性婚には賛成です。たとえ人類の歴史がどうあろうとも、愛し合うもの同士が一緒にいたいと願う、人生を共にしたいと願う想いの前では法律もルールも特に意味はなさないでしょう。愛こそ全て、です。


 ただちょっと最近気になるニュースとしては、同じ趣味を持つもの同士、結婚じたいはもう諦めていたり、する意思は無いもの同士、パートナーシップ制度で家族になるのを認めても良いのでは、というオピニオンがあるそうです。それは友達?なんと定義されるのでしょう。分かりませんが、それは友人との「友愛」はあるのかもしれませんが、所謂「愛」の介在しない形式ですよね。私はこれには明確に反対です。同性であろうが異性であろうが、そこに愛、言葉を選ばずに言うなら「性愛」ですね、これが無い関係に結婚や婚姻、パートナーシップという語をあてはめてほしくはありません。道理に反してるように感じます。多様性は寛容と近しい言葉ではありますが、道理の通らないことを認めるという事ではないと思います。


 最後は余談、蛇足だったかもしれませんが、「愛」とかの話になるととてもセンシティブです。今回のは「私はそう思う」というだけで、そう思わない人がいてもそれはしょうがない事ですね。

 次回はテーマを変えて、経済についての話を始めたいと思います。

 

※ただの一般市民の書く記事ですので、特にソースを示していない文章について、不正確であったり、私個人の誤解に基づいていたり、そもそも間違っていたり、する場合があると思います。そういった部分を見つけた方は出来るだけ優しく教えていただけると幸いです。勉強になります。またそういった理由により、記事を丸呑みするのではなく、興味を持ったらぜひご自分でいろいろ調べてみてください。