チャンマールタイムス

様々なニュースについて語ります。

差別

※以前下書きに書き溜めていた物の放出 

 

 人類の歴史で「差別」の問題が無かったことはないでしょう。かつては身分や階級による差別が公然と存在し、現代は更に多種多様な差別の問題が社会の課題とされています。

 

 この「差別」により生じる「問題」は大きく2つに分けられると思います。一つは「迫害」、もう一つは「生きづらさ」。迫害は外的要因であり、生きづらさは内的要因と言えるでしょう。生きづらさに関しては社会システムによるものもあるので外的要因も含むかと思いますが、一旦乱暴な分類として飲み込んでください。

 

 今回論じてみたいのは、差別というものをこれからの人間社会がどうとらえるべきなのか。どう解決していくべきなのか。もしくは解決など目指すべくもないことなのか。という点についてです。

 

 差別の一つの側面である「迫害」。これは暴力であったりひどい場合は殺害であったりと、重要な人権に対する侵害である事がほとんどです。住みにくいところに追いやってしまう、というのも直接的な暴力では無いものの迫害と言えるでしょう。その追いやる過程に暴力が介入することもあります。このような迫害は、明確に禁じられるべきですし、人類の英知を結集して解決を図るべきですし、そのことに疑う余地も無いと思います。全ての人が、可能な限り生まれながらにして等しい人権を持つ。これは他者から等しいものとして扱われる、という事に他なりませんが、差別による迫害をなくす、というのはそれと同義です。私自身、あなた自身が誰からも迫害されたくないのと同じように、誰一人として当然に誰からも迫害されない。そういう社会の構築は人類に課せられた大きなタスクの一つと言えるでしょう。

 

 もう一つの側面である「生きづらさ」について。障がい者差別とか外国人差別というのがまず考えられますね。階段しかない建物。また母国語で読むことが出来ない案内、アナウンスなど。それから女性差別の問題。女性の方が給料が低いとか、出世がままならないとか。LGBT問題も考えられますね。同性婚のルールが無いとか、相続などで不利だ、とか。ほとんどがそういった社会制度の不備により不当に不利益を被る、もしくは不便を被る、というようなケースです。

 これに関しては、私は結構難しいと考えていて、差別があり、生きづらさがあるから解決されるべきだ!とは直言出来ないと考えています。

 きれいごとを抜きにして、社会というのは基本的に常に「最適化」するベクトルに動いていきます。今の社会のありようは、社会全体が最適化しようとした結果である、とも言えるのです。本当に最適であるかは別として、社会が「こう」であるのには相応の理由がある、という事です。もちろん社会はアップデートされていきます。身体障碍者が生きやすい社会の構築、たとえばスロープやエレベーターなどバリアフリーの実現、法律や制度で就職や賃金の男女格差を無くすこと、そういったハード面での解決は比較的容易でしょう。

 ただ人のマインド、ソフト面での進化は、ハード面の進化よりはどうしても遅くなってしまうのは仕方ありません。先だってのオリンピック森前会長の失言問題などは、社会に比較的厚い層で、そういうマインドの人がいる、ということを露呈しました。これは彼らが悪いのではありません。それが当然だった時代があって、その時代に人生のほとんどを過ごした人は、そうでない「現代的」な物の考え方など出来ようはずがありませんし、我々も望むべきではないでしょう。そういう意味であそこまで袋叩きにして職から追いやることが正しかったとは、私は思っていません。(社会全体が被るべきコストやリスクを一人に負わせた感がある、という風に考えています。森喜朗氏一人が悪いのではなく、日本国民全体が負うべきコストであろうと。ちょっとここの議論とは関係ない話ですが。)

 

 さて、生きづらさの解決がなぜ難しいのか。それは、それが内面の問題であるがゆえに可視化しづらく、また数値化して図ったり比較したりできないものであるからです。

 外的要因、例えば殺害であれば死者の数というものがあります。暴力であれば被害者の数というものがあります。しかし例えば健常者で異性愛者ではあるがいじめられっ子だった私と、性的マイノリティーの方との生きづらさって本当に比較可能なのでしょうか?身長190センチ近くある私はあらゆる建物や電車で不便を被っておりますが、その不便と車いすの方との不便は比較可能でしょうか?

 私は今はいじめられっ子ではありませんし、上記のように健常者で異性愛者で、いわゆる普通の人であると言えるでしょう。ですが生きづらさが無いわけではありません。言葉にするのも難しく、可視化しづらいものです。すごく乱暴で配慮の無い言い方をすれば、女性であるとか、性的マイノリティーであるとか、というのは生きづらさがそういった属性によって可視化されやすいだけなのではないか、と思うこともあるのです。可視化されない生きづらさは無視されても良いのか?ということです。




 この問題の結論としては、すべての人がそれなりに生きづらさを抱えながらも、誰もが自己実現の機会を奪われないで生活すること、それが社会が目指すべき方向性なのではないか、というものです。

 差別のない社会を目指す、というのはこういった機会の平等性を目指しながら、「行き過ぎることのない」変革への働きかけが必要だということです。上記のように、今の社会がいかに不条理に感じられたとしても、そうである理由がある━なぜならいま社会が「こう」であるのは最適化の結果であるから━ということなのです。それを変えようとするのは、今生きづらさが可視化されている人の解決にはなるかもしれませんが、思いがけないところで新しい生きづらさを生むかも知れないということなのです。

 

 この問題に限らず、社会の運営(すなわち政治)というのは、あらゆる問題が乗ったお盆を一本の指で支えているようなもの、と私は解釈しています。誰かの生きづらさの解決は新たな生きづらさを誰かに課すことに繋がる可能性がある。差別の問題はこの視点を失わないように議論を進めなければならないと思います。

 

※ただの一般市民の書く記事ですので、特にソースを示していない文章について、不正確であったり、私個人の誤解に基づいていたり、そもそも間違っていたり、する場合があると思います。そういった部分を見つけた方は出来るだけ優しく教えていただけると幸いです。勉強になります。またそういった理由により、記事を丸呑みするのではなく、興味を持ったらぜひご自分でいろいろ調べてみてください。