チャンマールタイムス

様々なニュースについて語ります。

多様性、その2

ポイント

・障害には「ハンディキャップ」と「個性」という側面がある

・どの個性が社会に適するかはわからない

・たまたま多数派が持つ個性に社会が最適化しているだけ


 多様性、横文字ならダイバーシティという概念には、もちろん男女の性差、それから民族や肌の色による差、そして性的マイノリティ、さらに障がい者の社会への適合という問題もあります。実に様々ですね。

 前回は民族の多様性、ひいては文化風習の多様性が社会に打たれ強さをもたらすというようなお話をしました。今回は所謂障がいについて少し語ってみたいと思います。キーワードはオードリー・ヘップバーンです。


 「暗くなるまで待って」というオードリー主演の映画があります。あんまりネタばれしないように書きたいのですが、、、内容としては、盲目の女性が、家に入ってきた凶悪な犯罪者相手に、夜家を暗くして対峙する、というような話です。つまり、夜家が暗くなると、健常者である犯罪者よりも障がい者である盲目の主人公の方が優位な立場になる、というお話です。

 最近も似たような映画があったように思います。「ドント ブリーズ」でしたか。老人一人暮らしの家だからと軽い気持ちで泥棒に入った若者グループが、盲目だが異常な聴力と残忍性を持つ住人の老人に「狩られる」というようなストーリー、のようです。私は未見です。

 「オードリー・ヘップバーンで語る」と言いながらオードリーに触れるのはここまで(笑)なのですが、これらの作品で描かれているのは、「環境が変わると障がいは一転してアドバンテージになる」という視点です。これは実は社会の多様性を語る上で非常に重要な視点なのです。


 もちろん障がいには「ハンディキャップ」という側面があります。弱点と言いますか。ところが別の見方で「個性」という言い方をする場合もあります。あまり当事者には好まれない言い方だそうですが、私にはあまり語彙力が無いため、ここでは必要上あえて使わせて頂きます。

 先天的であるか後天的であるかはさておき、目が見えないであるとか、耳が聞こえない、であるとか、四肢に欠損や形状異常があるとか、様々な障がいの態様と、健常者の態様を等しいものとして並べてみます。あえて「A」「B」「C」「D」というように並べてみましょう。たまたま四肢が「多数に顕れる」特徴を示している人を仮にAとして、社会というのはその「多数派」に最適化されているのですね。2本脚があって階段を上ることが出来る、それが多数派であるから当たり前のように階段が設置されているわけです。この場合BとかCとかDの人は困難を感じるかもしれません。

 ですが、もしBが多数派であったら。例えば「羽があり空を飛べる」という形状が一般である場合を想像してみてください。あなたはそんな社会にいます。1階から2階に行くのに、「普通の人」は羽ばたいて飛べばなんの困難も感じずに行けます。その個性に最適化された社会では、「階段」や「エレベーター」は発明すらされていないかもしれませんね。あなたは2階という場所には一生行くことはできません。

 Cを、目が見えない、という態様であるとしましょう。そしてあなたは深海のような光の届かない世界で生きています。上の映画のたとえ同様、視覚情報に頼らざるを得ないあなたは、あらゆるものにぶつかるかもしれません。ホームから落ちるかもしれません。車にひかれるかもしれません。危険ですね。でもその世界ではCが多数派です。誰も、そもそも目という器官すら備えていないかもしれない。全ては聴覚や、鳥のように頭部に超音波を出す器官を持ってそれで距離を測っているかもしれない。そんな「普通の人」に最適化された社会では、あなたは生きていくのが非常に困難ですね。

 BやCが多数派である社会では、現実のこの社会で健常者とされている人のほとんどが障がい者ということになります。Bの空を飛べるは流石に荒唐無稽だとしても、Cの社会はもしかしたらすぐ実現してしまうかもしれません。環境の劇的な変化で日光が遮られるとか、地下での生活を強いられるようになるとか、ありえないとは言えません。その時にあなたは「多数派」の特徴を備えている側でいられるでしょうか。


 何が起こるかわからない。だから様々な特徴を備えた人が生きている社会(=豊かな多様性を備えた社会)は、「生き延びる可能性」が比較的多く担保されている、ということになります。急激に日光が届かなくなっても、健常者は軒並み死んでしまって絶滅するかもしれませんが、盲目の人は生き残るかも知れない。考えられる可能性を列挙することはここではしませんが、どの個性が生き延びるために求められるか、は分からないのです。人より臆病な人が生き延びるかもしれない。人より大胆な方が、人より集中力があるほうが、手先が器用な方が、等々。今コロナ禍でもまことしやかに言われる、比較的被害の少ないアジア人は何か特定の免疫があって、というような話もその一種です。突然パンデミックが起きても、特定の人種だけなぜか、先天的にか、習慣によるものか分かりませんが、比較的被害が少なく、生き残る可能性が高いという事例がある、ということは重い事実です。

 蛇足かも知れませんが、恐竜が絶滅した前後、生き延びることができたのは今でいうネズミのような小さな哺乳類やトカゲなどの小さな爬虫類など、それまで「狩られる側」「被食者」だった生き物でした。進化論における「適者生存」の「適者」であり強者であった恐竜が、環境の変化によって絶滅してしまい、(もちろん同様に適者の一部ではあったが)比較的弱者であった小動物が生き残ったという事実も、示唆を含んでいるように思います。


 だからこそまず、健常者(と言われる特徴を備えている人たち)はそういった想像力を持たなければなりません。たまたま多数派に顕れる個性を備えていて、多数派の特徴だからこそ社会はその個性に最適化していて、だから健常者は便利な生活を享受できている。それは「たまたま」なのです。現実そうであるだけ、とも言えますが。

 そして社会の進歩によって、健常者とは違う個性の身体や精神を持っている人でも、生きやすい社会にしよう、という試みは日進月歩進んでいます。耳が聞こえなくてもダンスを踊ることができる人、目が見えなくても弁護士になる人も出てきています。身体的特徴以外の、精神的な個性についても、芸術や科学の世界で健常者には到達しえないほどの成果を出す人も多くいます。もちろんそれは様々な周囲のサポートが不可欠かも知れませんが、たとえ健常者でもなんのサポートもなく生きていくことは不可能なのです。


 そうやって考えていくと、健常者であろうが、身体的または精神的障がいを持っていようが、「同じ社会の仲間」として生きていくことが大事ですし、お互いにお互いが必要、という事も忘れてはならないと思います。私たちの体や心に顕れた特徴は様々であり、そんな様々な特徴を備えた人たちが支えあって生きてくことで、私たちは今よりもっと幸せな社会、幸せな人生を送ることができます。逆に言えば、健常者であっても生きづらさは多く抱えているでしょう。「自分とは別の形に最適化された社会に対する生きづらさ」を抱えているという意味では、誰もが障がい者と言えるかも知れません。「自分が社会に適合できない」のではないのです。たまたま「自分とは別の形に最適化された社会に生きざるを得ない状況であるがゆえに」生きづらさがある。もちろん程度の差は確実にあって、おそらく多数派に属すであろう私の生きづらさと、いわゆる障がい者の生きづらさは比べるべきものではありません。

 障がい者が関係する事件が起こるたびに、多くはないものの障がい者への差別や敵意、蔑視などが顕在化することがあります。そんな時に私が、出来ればみんなが認識したら良いなと思うのは、自分も含め、「みんな」がそれぞれ社会の仲間であると同時に、この社会を取り巻く「環境そのもの」である、という事です。その中で、未発達な社会が歴史の途上で「多数派」にしか最適化できなかったが、進歩によって、より多くの個性に対応できるようになってきた。これは歓迎すべき事です。なぜなら、「多様性」は我々人類が生き残る重要な強味になるからです。そう考えることが何かを解決できるわけではありませんが、少なくとも「誰かを社会から排除しなければ」という考えにはならないんじゃないかと思います。


 それでも、よく裁判などで「心身耗弱の場合は減刑」とか「心神喪失の場合は無罪」とかニュースを見ると、どうにも不当のような気持になるでしょう。それについてはまた別の機会に触れたいと思います。


 次回は多様性つながりで、性的マイノリティについて語ってみたいと思います。炎上しないかな。大丈夫かな。


※ただの一般市民の書く記事ですので、特にソースを示していない文章について、不正確であったり、私個人の誤解に基づいていたり、そもそも間違っていたり、する場合があると思います。そういった部分を見つけた方は出来るだけ優しく教えていただけると幸いです。勉強になります。またそういった理由により、記事を丸呑みするのではなく、興味を持ったらぜひご自分でいろいろ調べてみてください。