チャンマールタイムス

様々なニュースについて語ります。

雑感 2022/09/08

 幼稚園の通園バスでの置き去り死亡事件が相次ぎました。自身も幼稚園に通う子を持つ身として、ニュースは悲痛の極みであり、正視に堪えません。

 

 こぞってメディアでは「このような悲劇を繰り返してはならぬ」という声を伝えますが、現実問題として「立て続け」に起こってしまったわけです。幼稚園や保育園など関係者なら先の事件を知らない人はいなかったでしょう。それにも関わらず続けて起きてしまったということは、幼稚園や保育園を取り巻く環境に重大な問題がある、そしてそれを改善しなければまた起こる、という考えを持たなければならないと言えるでしょう。

 

 2件続いた事件、私が知りえた情報から見る限り、いずれも「園長が運転」していたとのことです。園長先生は基本的にバスのドライバーを業務として担当しないものだと思います。容易に「人手不足」の問題があることが、まずは指摘できるでしょう。なぜ園長がバスを運転しなければならない程に人手不足であるのか。

 かつて「保育園落ちた日本死ね」が流行語になった事がありましたが、あの頃から保育園や幼稚園などの子供の養護施設そのもの、加えて人的リソースが圧倒的に不足しているのは変わらないようです。所謂待機児童の問題などもありましたが、待機児童の定義のトリックもあり、実態としては待機児童が居ても待機児童0を喧伝する自治体もあります。

 保育園、保育士が少ないというのは、入園希望者に対して少ないという事でもあるので、リソースの不足は翻って「子供を入れたい家庭が多すぎる」という面も強調して意識しなければならないでしょう。また待機児童ゼロというお題目の達成のためにむやみに施設だけ増やして内実としての人的リソースが不足している、という事情も想像できます。想像ではありますが、実態とそう大きく乖離はしてないのではないでしょうか。

 

 関連するニュースで、アメリカでの通学バスの事情を伝えるものがありました。アメリカの通学バスは、エンジンストップするとけたたましい警告音が鳴り、それを止めるボタンは車内最後部にあるため、ドライバーは必ず降車前に歩いてバスの一番後ろまで行き、ボタンを押して警告音を止め、また自身のシートまで戻り降車する。この過程で必ず車内を1往復するのですから、仮に寝てしまった子、隠れている子が居てもその際に発見できる、というのです。アナログではありますが、事実として大変効果的であるとニュースでは伝えていました。

 日本でもこのような安全システムを導入できないものでしょうか。

 

 そう考えた時に想像できる問題点としては、まず今無数にある通学・通園バスをそういった機能を備えたものにそっくり入れ替える時にかかるコストですね。保育士の給料の安さも良くネットではネタにされるのを多くの人は知っているでしょうが、そもそも日本の保育業界は金が無いのです。保育園や幼稚園にそのコストは負担できないと考えるのが妥当です。そうなると国が支給することになりますが、そのためにはかなりの税負担を国民に強いなければなりません。税金の使途が不透明なこの国で、その増税に納得する人がどれだけいるでしょうか。

 

 また同じニュースで、アメリカでは通学バスの運転手は非常に厳しいテストをクリアした人しかなれないと伝えています。親からしたら自身の命よりも大事な園児・児童生徒を預かるわけですから、運転のテクニックだけでなく真面目な人柄やいざという時に機転の利く人間性も求められてしかるべきでしょう。事実アメリカでは通学バスとは公道上で最も安全な乗り物、とされているそうです。

 

 日本でこのような規制が可能でしょうか。ただでさえ人手不足であるのに、このような「運転手に対する規制」を課したら、ほとんどドライバーなど存在しなくなりそうですね。規制を課す制度や法整備だけでなく、まずドライバーを高給にすること、そうやって通学バスドライバーになる社会的なモチベーションを強化して人材確保をしなければならないでしょう。これもお金のない保育業界では実現できないでしょうから。ドライバーの給与に対する国からの支援が無ければ実現は難しいと考えられます。また増税ですね。

 

 ネットで拾った話なので話半分ではありますが、保育にかかる費用として、国が負担している金額って、子供一人当たり月に60万円ほどという試算があるそうです。暴論だとは思いますが、だったら公費でパパかママに30~40万ほど月額で支給して「働かないで」「家で子供見て」というようにした方が良いという意見もあるようです。暴論ではありますが、上に書いた「子供を入れたい家庭が多すぎる」問題も、これであれば解決できなくも無いと言えます。

 

 日本は少子化が進んでいるというのは誰もが知っている事実ですが、そういう意味では保育業界というのは斜陽産業とも言えるのです。今後どんどん子供は減っていく。であるのにも関わらず保育士を増やし、ドライバーを増やし、施設を増やし、、、そう遠くない未来彼らの多くは失業してしまう可能性が高いのに。

 

 こうやって様々な問題を見ていきますと、どれか一つの側面だけを強化しても解決は難しそうです。アメリカの通園バスの例は、基本乗ってる大人はドライバー一人だからそういうシステムになっているというだけで、息子が通う幼稚園のバスはドライバー以外に先生が必ず一人乗っていて、車内確認は必ず2人体制で行なっているようですので、アメリカ式のシステムが無くてもバスに大人が二人乗るようにすれば良いだけ、とも言えますが、そこでも人的リソースの問題は生じてしまいます。

 

 国が手厚く支援して保育業界の人的リソースを強化しても、それを維持できるだけの子供の数を保てるのか。少子化解決の問題も含んでいます。

 そしてこういった対策のために更なる増税を行なうという事を国民が受け入れられるか、という税の問題も含んでいます。

 

 私の個人的思い入れとしては、とにかく子供が犠牲になるような事だけは何としても避けねばならぬ、という考えでいます。極端に言えば「大人が何人死んでもいいから子供だけは守ろう」という考えの持ち主であります。規制やお金の問題はバタフライエフェクトの例えのように、あるところを強化すると、例えば経済的なネガティブエフェクトにより自殺者が増えたり医療が行き届かず死者が増えたりします。同様にあるところを強化すると別のところに不便を生じ、社会にネガティブな効果をもたらすこともあります。

 そういった事を考えますと、国としてどこまで「子供を守る」という気概を示せるのか、という話にもなってきます。

 

 度々アメリカの例ですが、アメリカの通学バスは乗降中は追い抜きが出来ないように「STOP」と書かれたバーが横に張り出すように出来ているそうです。日本の狭い道路では到底実現不可能だとは思いますが、その不便を「それでも子供の為なら受け入れる」というマインドを国民が持てるかどうか。

 

 少しだけ法学の徒っぽい事を言いますと、英米法においては法律の上位概念としての「正義」があります。どの国でもだいたい法律が人権とその平等を規定してはいますが、アメリカなんかを見ていると、「子供には特別の人権を認める」というマインドが見え隠れします。法律では、飽くまで大人も子供も同じ人権を持つという規定ではありますが、力も知識も無く、様々な選択の自由を大人と比較すると制限されている子供は、大人以上にその人権を保護されなければならない。

 これが日本をはじめとする大陸法系統の国では考えとしては難しいであろうと感じます。もちろん子供の保護に関する法律や規定はたくさんあるのですが、飽くまで原則として子供も大人も同じ人権だよ、と。なので、大人の権利を著しく害してまで子供の権利を認める、というのは社会的に許せないというマインドがあるように思います。

 特に日本においては近年「不寛容」なオピニオンが目につくことが多く、仮に正しく税金が全て上記の問題解決に使用されたとしても、不満を表明して、それを阻止しようとする人が少なくない数出てきてしまいそうに感じます。

 

 そう考えると、今回のような悲劇を防ぐためにまずしなければならないことは、我々国民の意識の変革である、ということになろうかと思います。くどいかも知れませんが、子供は力も弱く、知識も少なく、我々大人と比して選択の自由が非常に限られています。特別な保護が必要なのです。特別な保護というのは、大人の権利を多少阻害してでも子供を保護する必要がある、という事なのです。

 これらの事件を他人事として「悲しいね」「可哀そうだね」「二度と繰り返さないように」とだけ言って片付けるのではなく、みんなが自分の事として、上に書いた意識の改革が必要なんだという風に考えて欲しいと思います。

 

 最後にはなりますが、幼い命のご冥福をお祈りします。